2013/02/16

“「山月記」が客観的に書かれているように見えるのは、下敷きにした『人虎伝』という中国文が客観的であるからですが、「山月記」は西欧的な「三人称小説」ではありません。どこをどう分析しても、聞こえているのは書き手、すなわち中島の声だからです。いかに沢山の漢語を使おうとも、いかに李徴を歴史上の人物として描いているように見せようとも、日本語で書かれる「小説」は、能や浄瑠璃の語りのように、優れて「物語」なのです。”